三中

  • 2019.05.30 Thursday
  • 15:18

TVのローカルニュースで「ちら」っと見た。区役所へ電話、親切に対応宇してくれ、後刻電話を呉れた。東京戦災資料せんたー、言わずと知れた早乙女勝元さんが政府、官の援助なく、苦労に苦労を重ねて独力と多くの善意で作り上げた、東京で由一の民間資料館である。そこで婦人が74年前に三中で生き延びた話をしたという。

 

資料館は両3度訪れたことはあるし、写真の場所の特定等でご協力したこともある。3/10(東京大空襲)当日朝あの多くの死体のあった3中でどこで生き残ったのか、話が聞きたかった。あの日、あの場所にいた面識のない方に「会う」のは初めてである。資料館に電話、H氏がご対応くださり、5/16にお話しの会があるとおっしゃる。

 

当時、我々中学3年生は材料不足で操業縮小の動員先「興国鋼線索」から先生が上手く「上」と交渉してくれて解放され学校に戻って「集団授業(英、数、国のみ)」を受けていた。しかし、臨時の動員(勤労奉仕)と学校の警備、具体的には10名程生徒が毎晩交代で学校へ泊りがけで勤務(楽しいほうが多かった)。

 

問題の3・10朝である。私は京橋のうちに居た。父が朝何処で聞いたか「本所深川が大変らしい」3中は劣等生には「うるさい学校」であった。欠席すると保護者名義の届(候文)の提出を要求される。3/10 はワタシの番であった。こりゃあ行かなきゃあだめ。電車は動かないから父の自転車でまる焼けの中を永代橋、門前仲町、緑町を右折、緑町3丁目で最初の死体に驚きながら霞のはるか3中の校舎が見える。それに元気図けられて江東橋へ、橋上全部焼死体、7時頃なので、通る人もいて、「獣道」が出来ている。やっと学校へ、「全焼」何処をどう歩いたか校庭へ出て、校長に会い前日の10名全員無事と「タンク」と渾名された体育先生の不明を聞く。次々に10名位生徒が登校してくる。皆茫然。

 

戦災資料センターで話されたご婦人は学校前の本やさん、やはり、学校と馴染みがあり、お話によると、北側から類焼し出したらしい。北側の校長室に居たが危なくなって出て南の方へ、運動場から南の雨体操場で助かったらしい。そのすぐ南がプールでその水を使って1台しかない手押しポンプで天井に着いた火を生徒を含む皆(婦人の父も)消していた。

 

私が雨天体操場に行った時は皆さん引き揚げたあと、運動場で偵察のB29を見たからそのころなのか。ただ、北側校長室の隣「学校事務室」に1っ杯皆床に座って頭だけ。「なぜ、その部屋へ?」木製の扉が燃えないで閉まっていたから・・何気無く開けると黒い頭がいっぱい。「ああ」と思って扉を閉めようとすると、頭が動いた。あの位「びっくり」したことはない幽霊かと?皆生きてはいても、あの時間でも動こうとしなかったのである。でも生きていた。婦人が助かったのは「馴染み」と幸運。

 

それから1日2日食べられなかった。伝えられないのは「あの匂い」である。

 

人に勧めたくなるモノ・江戸箒(ほうき)

江戸箒(江戸ほうき)老舗|白木屋傳兵衛

この記事のトラックバックURL
トラックバック