1945年1月27日の空襲

  • 2019.07.09 Tuesday
  • 23:04

当日は土曜日旧制中学3年生16歳、土曜日なので帰宅していた。午後1時半ごろ、空襲警報、あと、戦災をうけることになるが、その時は関東大震災の石倉の跡の半地下へはいった。姿は勿論見えないがききなれたB29の爆音が聞こえる。段々近づく、「今日はまずいなあ」と。ズシンとドカンが一緒に来た。それも続けざまに、ウチは崩れていない。跳びだした。外を見るとまるで見えない。表戸の外は夕暮れ時、後で解ったのだが土埃である。戸まで行って外を見る。石ころだらけ、埃が晴れるまでに30分位かかったろうか。

 

静まり帰っていた町がざわつきつき始めた。近くの京橋川まで行って見る。銀座に煙、しかもほうぼうに。

 

結果論だがウチ中心に百m以内被害はなさそう。恐る恐る回る、京橋交差点はひどい。銀座4丁目右側がひどそう。それ以上は親に止められる。

 

サイパンを取られて空襲が始まった。最初は三鷹辺の中島飛行機が高高度(1万m)当時の司令官はわりに(後のルメイに比べ)軍だけ狙う軍人だった。(この辺は戦後の知識)米軍の被害に比して、効果は上がらなかった。

軍、政府は夜間光が漏れるのを止めさせた。米軍機の目標になるという。米軍はもっと大きいのを目標にした。富士山である。これを目標に侵入し変針すれば東京である。(その日の作戦命令で戦略意図は不明)

想像だが、何とか、日本の戦意を削ぎたかった。NYのマンハッタンへ爆弾を落せば大騒ぎになると考えた。(その例がツインタワーへのテロ)これが1/27の銀座爆撃であると想像したほうが、納得する。

 

残念ながら、そうだとするとアメリカの意図ははずれた。当時の銀座は今の銀座、大正の銀座ではない。物はない。若い人はいない。デパートは商売にならず営業は3階まで、日本人に衝撃を与えて手ヲ挙げる迄にはいたらなかったのである。一口でいえば、さびれていたのである。当日の被害はあの被害の割には千人を超えない。

 

しかもこれは国際法違反、だって、銀座に軍需工場があるわけない。

 

ルメイ(はドイツ、ハンブルグ市街空襲で名を挙げた)が司令官になってから3月10日の大空襲がおこなわれたのである。

 

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