隠居の独り言(震え)

  • 2019.07.14 Sunday
  • 23:10

錦糸町駅前に江東劇場(と並んでも一つ)、2つとも3月10日の大空襲で焼かれた。1945年昭和20年だ。その後江東劇場は憲兵隊が使用した。大空襲あとの盛り場は治安というより、軍隊に都合のわるい状況がうまれやしかったのかも、映画も俳優も上演どころでもない。我々、一般人や学生には映画も「燃えて亡くなったか」位だった。通学の為駅ヘ向かう途中、「江東劇場」の前に人だかり・・・何だろう。野次馬之介は寄ってゆく。

 

「江東劇場」の前(路上)に米兵(カーキ色のシャツとズボン)がよれよれ靴下無の素足、後ろでに結わえれれ立たされている。後ろに憲兵腕章を付けた兵長が一人。アメリカ人捕虜の「見せしめ」である。

 

他に娯楽らしいものも、ないし、あの「死骸の山」の跡かたもない金糸町駅前だ。今ほどではないがそれでもパラパラ人道理はあった。時間につれてひとが集まって来た。見分人は皆被災者である。後付けだがこれだけでも「国際法規違反」である。ついでにいうが、我々は国際法規、戦争法規なんてものは教えられていなかった。

 

何の説明もなかったが、どこかで墜落し、ここへ連れて来られて、1応惇門され、またどこかへ、連れて行かれるのであろう。

 

どの位経ったろうか(そんな長時間ではない)誰かが「やっちまえ」といった。群衆の環が「ぐつっとせばまる」皆殺気だった。いよいよの時、憲兵も慌てて「拳銃」を抜いてかざした。それが無ければ私のB級戦犯の可能性も。

 

騒ぎはおさまった。「拳銃」を見なかったらオレも殴り殺していたかも知れない。蹴散らされて帰って来たが、あの捕虜「最初から震えていた」その震えが「人間こんなに震えるものまのか」と思うほどだ。

 

戦後政府でも学校でも教えて呉れなかった。「リットン報告書」を始め隠していたを読んで以何に知らないかったかが解った。

 

T首相は開戦より戦陣訓の罪のほうが重いと思う。「生きて虜囚の辱めを享なかれ」でどのくらい死ななくてても良い人が死んだろうか。(あれにはあの有名人もかかわっていたという。司馬遼太郎は「名分は覚えやすい」という。

やっぱり、戦争はいけないのだ。

 

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